ADHDの子供を育てるということ

全く効かなかったADHD薬『コンサータ』、期待は一気に裏切られる

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2019年6月、癇癪を静めるために、息子の命を守るために投薬を決める

激しい癇癪があった5月の下旬、その日を境に癇癪は増していった。

”増す”というのは、癇癪そのもの時間と頻度。それを受け止める親は疲弊していく。

我が子を通して”癇癪”と”怒り”の違いを私はまざまざと感じるようになった。子どもはよく怒るし、よく泣く。その頻度はその子のもともとの気質によるものと思うが、怒りと癇癪は違う。

癇癪は、我を忘れている。そして癇癪は、その怒りの根底に、自分が怒ったその理由とはまた違う何かが隠されている場合がある。だから、些細なことでも受け止められず、怒り、、、癇癪へと移行する。

のん太郎の場合、根底にあるストレスは紛れもなく学校生活だった。

”自由”じゃない学校生活、友達も先生も好きだけど保育園とは全然違う。その葛藤の渦の中にいたのだと思う。自分がやりたいことを自分の好きな時にできない。そんなの小学校に入ってしまえば、誰もが経験をする就学前とのギャップだが、それに慣れるには他の子の何倍もの時間が彼には必要だった。

保育園時代、のん太郎の”怒り”というものは何とか受け止めてきた。しかし、その怒りが癇癪へと移行した今、もう誰にも止めることができず、のん太郎自身”自分の怒り”がどこから来るものなのか、どうやったら自分の気持ちを静めることができるのかもうわけがわからない状態だった。

しばしばあった”怒り”の場合は、場所を変えることやこちらの声かけで鎮静化をはかることができたが、いったん癇癪へと移行した場合はただただ彼の怒りがおさまるのを待つしかなかった。

待つと言っても、のん太郎は声にならない声で喚き倒し、家の物は壊し、何もかも自分の心と同じように、ぐちゃぐちゃにしたかったんだと思う。そして、しまいにはぽろぽろと涙を流し、この世から消えてなくなりたいと言うようになった。妹への暴言暴力もひどく、片時も目を離せない状況が続いた。

学校へはこの状況を逐一報告をしており、そして理解をしてくれ、学校にのん太郎がいっている間はせめてゆっくりしててくださいと、そんな言葉をくれる学校だった。これで小学校の理解がなかったら私はどうなっていたんだろうと、今思い返してもぞっとする。

私が苦しかった時、担任の先生に言われた言葉がある。

「のん太郎くんは、知能がとても高いです。そういう子は、いつか必ず自分で自分の行動に気付きます。それまで気長に待ちましょう。」と。

早々に通級の相談もしていたので、のん太郎の特性を本当に先生は早い段階で理解してくださり、勉強が好きというのん太郎をずっとずっと支えてくれている。特に国語と算数の理解は高く、あなたには得意な教科があるじゃない!それでいいじゃない!と、ずっとそんな言葉をかけてくれていた。

それでも癇癪の時間は長い時で朝だけで3時間、学校から帰ってきたあとも学校で抑えていた怒りが爆発し、それはもう手がつけられるものではなく、ただただ時間がたつのを無言で待った。

私はこの頃から、のん太郎は本当にADHDなんだろうかと思うようにもなる。

実は小学校に入ってから、多動性の面はあまり目立たなくなってきていた。体のどこか一部がうごいているということも、あきらかに減っていた。

それよりも”易刺激性”・・・

その言葉がまさにあてはまる状況で、ずっとずっとADHDだと思っていたが、実はのん太郎は自閉症スペクトラム障害なんじゃないかと思うようになる。

ADHDの特徴である意味もなく授業中立ち歩くといったことはなく、それよりもマイナスの状況下における気持ちの切り替えができないこと、だからイライラが大きくなり教室の中にいられず、廊下でクールダウンという日もあった。

例えば図工。思っていたように絵がかけない。イライラがつのり画用紙をぐちゃぐちゃにしてゴミ箱へ捨て、教室から出てしまったこともあった。

ずっと負の感情の中で生きていること、それが今の彼の一番辛い生きにくさではないだろうか・・・・、そんなことを思うようになったのもこの頃からである。

主治医は診断名をつけるよりも今の状況を落ち着かせる方が大事という主治医のため、私のこの疑問はまだ解消されていない。

そして5月26日(月)、の運動会の振り替え休日に精神科のクリニックを初めて訪れた。

しかしその日は前回の日記で書いたとおり、投薬治療へ踏み切ることはできなかった。自分がもう少し我慢すれば、のん太郎の癇癪に耐えられるんじゃないかと思ったからだ。もう少し私が頑張ったら、のん太郎に薬を飲ませずにすむかもしれない、もう少し私が頑張ったらこの状況を打開できるかもしれない・・・そんなことを思いながらクリニックをあとにする。

しかし、あまかった。

その翌日もまた大きな癇癪があり、下校後ついに外で癇癪を起した。家以外の場所での癇癪はその日が初めてだった。思いだすだけでも辛い出来事である。

学校から自宅での帰り道、心配で学校まで迎えにいったが、私の顔を見たとたん表情が変わる。

校門を出た後、またぐちぐちとイライラが始まる。何事もなく家まで帰れるか不安だったが、案の定、通学路を脱線する。そのくらいならまだ許容範囲だが、途中、ファミレスに通るのだが、そのファミレスの大きな看板を蹴り始めた。

もちろん通行人の注目の的だ。

注意するが、逆ギレ。今度は、通学路で通る団地の花壇の花を引っこ抜き投げ捨て、私有地に入る行為が見られた。のん太郎の表情は、怒りの中にあるその表情は・・・・もうのん太郎じゃなかった。

何が、どこが、いつから、いけなかったんだろう。産んで本当に良かったの?

この子はこの先どうなるの?未来はあるのか。

彼の10年後を想像すると怖くてたまらなかった。

怒りが収まらない彼を、なんとか自宅の中に連れていった。

そこからまた激しい癇癪があり2時間たっても収まらない。私は、癇癪のまま自宅から飛び出そうとする彼に大きな危険性を感じた。3歳の娘を守りながら、私は外に出ないように玄関に座り込む。

ベランダに出ようとするときは走って止めた。何度もそれを繰り返した。

のん太郎は、まだ6歳。体も小さいからまだ力で抑えることができる彼の癇癪だったが、これがもっともっと体が大きくなったらどうだろう。

そんな不安が私にはずっとあった。

そして、その日、投薬を決めた。

怒りが収まらなず、大声をあげながら涙を流す彼の腕を握りながら、昨日受診をしたクリニックへ電話をした。事情を伝え、このまま息子を連れて受診をしたい旨を説明し、受診の予約をした。

仕事中の主人に帰ってきてもらい車でクリニックへ向かう。

5月28日(火)2度目の受診。

主治医に今日の出来事を伝え、癇癪がずっと収まらないことを説明した。もう投薬への迷いはなかった。

担当医より

『まずは、おかあさんが休みましょう。そのために薬を使ってみましょう。このままでは親子関係が破綻します。破綻した親子関係の修復はなかなか難しいと思います。』

と、先生は言った。

私の涙はとまらない。

5月に入り、のん太郎の怒りと癇癪が続き、私はもう彼を愛するということは難しいと思っていた。しかし、その時はもうその感情すら忘れていて、どうか毎日彼を怒らせないように生活していくか・・・、ただそれだけだった。

破綻かぁ、、、それならもうとっくに破綻してしまっているのかもしれない、そう思った。

主治医から勧められたのは、コンサータというADHD児によく効き、即効性のある薬と言われているものだった。

ADHD児に対する薬は主に、『コンサータ』『ストラテラ』『インチュニブ』があり、試してみないとその子に効くかどうかわからないのだが、いずれもADHDの疾患の原因の一つであるドパミンにうまく作用してくれる薬なので、あとはその子その子の薬の相性となる。

投薬治療を始めて今思うことは、合う薬に出会うことの難しさ、薬も容量によってその子の適量が全然違い、また体重などだけでは適量を決められないので、とにかく試してみるしかない。

その日、主治医が提案したのは『コンサータ(18mg)』だった。

即効性があること、ストラテラ・インチュニブは薬が作用してくるまでに2週間かかり、それまで待っていられないこと。いろんな条件から、コンサータを選択した。

副作用を心配し投薬治療を選択しない場合も多々あると思う。

我が家は親の我慢の限界が超えたこと、彼の命を守ることが最優先と考えたこと、このまま投薬をしなければ二次障害(反抗挑戦性障害など)に移行するリスクがあり、その二次障害に移行した場合の方が、投薬治療よりもリスクであると判断したため、投薬へと踏み切った。

しかし、そのコンサータは、全く、全く・・・

効かなかった。

次の受診は1週間後の予定だったが、私は効かないコンサータを毎朝彼に飲ませた。

もちろん、癇癪もおさまらなかった。

そして、ついに帰りの会の時間に教室から脱走をした。初めて学校から電話があった。

いつもありがとう。

美羽

追記:

今はエビリファイ(3㎎)を寝る前に飲んでおり、安定傾向にあります。

続きます↓

ADHD薬『コンサータ』、長男6歳には全く合わなかったその結果・・・