ご訪問ありがとうございます。みゅうです。
昨日の日記の続きです。
今日は、義父の実家の家族について書いていますが
ぶっとんでるので、笑ってもらって結構です!
引いちゃって笑えなかったらゴメンナサイ。
こちらの続きとなります↓
義父がなくなってから、一番大変だったのは
凍結されてしまった銀行の預貯金の引き出しでした。
義母は暗証番号どころか
自分の夫がどの銀行を使っていたのかも知りませんした。
長く生きていれば、銀行口座が一つだけってことはないですから。
いくら家族でも、名義人が亡くなれば
その口座は凍結されるので引き落とすことはできなくなります。
その名義人が他界したあと、口座にあるお金を引き出すには
家族であることの証明が必要なんですが
その手続きがものすごく大変だったようです。
義母は働いたことなんてほぼないですし
銀行員だった義父が毎月のお金を決めて
義母に渡しているだけだったので
義母は自分が住んでいる新潟の自宅のローンが
終わっているかさえも知りませんでした。
もはやここまでくると
義父と義母の関係が謎でしかないのですが
闘病生活がある程度あったにもかかわらず
残される家族のお金の心配を全くしてなかった義父。
それなのに、何も聞かなかった義母。
謎というか・・・奇怪です。
義母は義母でそれなりに裕福だったためか
お金への頓着が薄く、またそれなりの貯金もあったので
当面は困らないと思ったと言いますが
私、そういうのちゃんとしたいタイプで
そういう面でも義母とは話が合いません。
義父が他界後、まず一番に確認したのは
今住んでいる家のローンが完済しているかどうかだったのですが
結果的に完済はしていましたが・・・
義父の闘病生活も5年くらいと、それなりにあり
亡くなるまでの同居期間もそれなりにあったのに
ローンが終わっているかすらわからなかったって・・・
もう怪奇現象レベルですよ。
たとえ関係の修復が厳しいにせよ
せめてそのくらいの確認をすべきだったのではと
結果的にローンが完済していたので良かったのですが
団体信用にも入っているかもわからない状態の中
義母もよく聞かなかったなと・・・・。
訳が分かりません。
単身赴任先の神戸の社宅から新潟の自宅へもどったあと
自然療法に身をおいた義父。
たくさんの本を読み、そこから4本足の動物の肉は良くないと
色々と書かれていたようで
ある日を境に、4本足である豚や牛といった肉を
食べなくなりました。
義母が義父の食事の世話を
闘病中にどこまでしていたかわかりませんが
そんな義父の様子を私に
「どこまでも”生”にすがりつきたい人なのよ」
と、話してきたことがあります。
自分の夫に対し・・・
”生(せい)”にすがりつくといった表現に
なんだか切なさを感じたのを今でも覚えています。
まだまだ話は続きます。
義父には母と姉がいました。
裕福な家庭に育った義父でしたが
義父が大学卒業後あたりから
九州で営んでいた会社が傾きかけていきます。
もともと自分の家を継ぐ予定はなく東京への銀行へと勤めた義父
その選択は正しかったようです。
義父が義母と結婚した頃には
九州のその実家の会社を閉じ。その直後に義父の父は他界。
遺産はほとんど借金返済に回ったようでした。
しかし、会社を閉めたあとも
贅沢な生活を変えられなかった義父の母と姉。
義父は自分が結婚後もなお
自分の九州の家族に仕送りをし続けていました。
それもけっこうな金額を。
義母がその事実を知ったのは
義父の癌が全身に転移する前のことで
まだ元気だった義父と義母はその件でもめたようですが
それでもなお、義父は九州の実家へ仕送りを続けました。
実母に対してならまだしも、働ける自分の姉にもお金を送っていたことに
義母は納得いかなかったのだと思います。
そして結局、義父は本当に本当に・・・・
自分の家族にはお金を残さずあの世へ。
復讐だったのでしょうか・・・・。
それでも自分の子供たちには何か残してよかったのではと思いますが
何も残さず、何も伝えずあの世へいきました。
義父はいま、あの世で何を思っているのでしょう・・。
さて、義父が送り続けたお金の使い道ですが・・・
その九州の家は、決して生活に困っていたわけではなく
もらえるならもらっちゃお♪的な感じだったのだと思います。
九州の義父家族(特に義父の姉)は
義父からの仕送りをもらい続け
そのお金で・・・アイドルのコンサートの
おっかけをしていました。もう笑うしかないないです。
60歳そこそこの姉が自分の癌の弟からお金をもらい
アイドルのコンサートへ繰り出す日々。異次元です。
私もお会いしたことがありますが・・・
リュックにはたくさんの缶バッチがついていました・・・。
離婚歴のある義父の姉。子供が一人いました。
その子供が20歳を過ぎたころに
ピアノを習いたいと言い出しことがあったらしく
そのピアノのレッスン費も義父が出していました。
もう、みんな次元の違う大バカ者の集まりです。
働けや!と言いたい。
義父が他界した2月末。
これも義母の復習でしょうか・・・
本当に寂しい葬式だったと聞いています。
葬儀会社も驚いていたと聞きました。
そしてその後の4月、のん子が生まれます。
私はその葬儀には参列しませんでした。
そしてのん子が生まれたころ
四十九日の連絡がきました。
取り行いは義父の希望で
義父の実家のある九州行うことになりました。
よって義父の姉が四十九日を取り仕切っていたのですが・・・
待てど暮らせど、その四十九日の連絡が来ず
やっとこさ、封書で届いたのですが・・・
その封筒・・・・
まさかの、キキララの封筒で届いたんです。
私、今でもキキララを見ると
義父の四十九日を思い出します。
キキララですよ、キキララ。
世の中にこんなぶっとんでる人間・・・いるんだって
のんこに乳をあげながら思いました。
そしてその、おおよそ四十九日の連絡が入っているとは思えない
ピンク色のかわいいキキララの封筒には
今度は手書きでキキララのレターセットに
四十九日の場所と日時の連絡が書かれていました。
手紙のキキとララは笑ってます。
そして、法要後の家族での食事の場所も書かれており
その場所、まさかのファミレス・・・・。
え?喪服でファミレス?
その後、九州ではそれが普通だからと義父の姉は言っていたようですが
一応、旦那には法要後の着替えを持たせました。
まだ新生児だったのんこを飛行機にのせるわけもいかず
結局私は行かず家でお留守番。
ちょうど2年前の春のことです。
もう少しだけ話が続きます。
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そして、その年の夏。
葬儀も四十九日も終わり、新潟へ帰省しました。
帰省し驚いたのは義父の部屋。
今まで入ったことも見たこともなかた部屋だったんですが
義父他界後、はじめて足を踏み入れました。
モノを捨てられなかった義父は
大学時代の教科書や配られたらしいプリント
入社式でもらったメダル・・・趣味で行ってたスキーの服や手袋・・・
ベルマークやら、なんかのポイント。
外れた宝くじの券。
それはそれは・・・すごい状態の部屋でした。
捨てられない人がいるってテレビとかで
見たことがありましたが
こんなに身近にいたんだと驚くと同時に
私も義父のことは何も知らなかったんだなとも
思いました。
モノ、モノ、モノがあふれかえっており
その全てにカビが生えていました。
カビの方が繁殖していて、原型がわからないものもありました。
よく、これで一緒に生活できたなと思うほど・・・
しかし、このカビ・・・このままだと繁殖をし続け
家も腐敗していくでしょうし、
腰の悪い義母には掃除なんてできないので
のん子のおひるねの時間を見計らい
とにかく、掃除。ゴミ捨て。
のん子が起きたら、義母に抱っこしてもらい
また、掃除。ゴミ捨て。
2年前の夏の帰省は忘れもしない
義父の部屋の大掃除でした。
幸い、義父は自分の部屋にため込むだけだったので
その部屋さえ綺麗にしてしまえば
問題のない家だったので
体当たりで、義父の残しすぎた物の数々を
処分したり整理をはじめた嫁の私。
掃除の助手に夫を任命。働かさせました。
私、血が騒ぎました。けっこう楽しかったんです。
2000ほどあったDVDと本はブックオフへ。
夫へ持っていかせて・・・・小遣い稼ぎをさせました。
なんか、もう楽しんじゃってますwww
見たこともない、超昔のカメラとかでてきたり(レア)
旧100円札の100枚の帯つきの束とか(現在の1万円分)
昭和初期の切手とか(コレクターは好き)
ちょっとしたお宝さがしでした。
たまに驚くものが出てきて
私の悲鳴が家中響き渡り
慌てて駆けつけるのん太郎と夫と義母。
ティッシュに大事にくるまれて箱からでてきたのは
義父の父が生前使っていたであろう入れ歯。
いやーーー入れ歯には驚きました。
はじめ人骨かと思ったんだけど、入れ歯でして・・・
それを片手に駆けつけてきた人たちに見せたら
(ちゃんと手袋してたわよ!!)
義母と夫はドン引き、
のん太郎は私の歯が抜けたのかと思って驚いてました(笑)
その後も、金棒(少しお金になった)
未使用のテレホンカード(NTTの電話料金になった)
未使用の時計(売った)
そんなこんなで売り上げ金が15万くらいになりました。
売上金なんて言っちゃうところが、超不謹慎なんですが
そのお金で沖縄旅行にいくという、もっと不謹慎なことをしました。
ある意味、私も変わってるわよねww
ネタがつきない人生でブログにも困らなくってよ。
そして、100を超えるゴミ袋を
新潟滞在中に数回にわけ出し
粗大ごみ扱いになるカビの生えたタンス類は
新潟の粗大ごみ収集に連絡し、回収してもらい
モノであふれかえっていたその義父の部屋は
とんでもない嫁のおかげで、整理され
今は空気の入れ替えをし、
壁紙をリメイクし、可愛いタンスを置き
孫部屋に大変身させました。
天国で義父は・・・
きっと、それ捨てないで~とか
とんでもない嫁だったんだな・・・とか
思っていたことと思います。
のん太郎も義父の思い出はなく
夫も同じく思い出はないのですが
私は、こうして強い思い出を残してもらい
せめて、帰省時にはお墓参りをしようと思います。
代々の遺影が写真立てで飾られている新潟の家。
そこには、義父の写真が飾られることはないけれど
その光景ですら今では笑ってしまう嫁なのでした。
いつもありがとう。
美羽