ADHDの子供を育てるということ

ADHDという現実を突きつけられたあの日のこと

ご訪問ありがとうございます。みゅうです。

ADHD長男2年生(投薬治療中)、今のところ定型発達児年少(幼稚園)の子育て真っただ中です。

前回前々回と続けて長男の良いことを書き綴りましたが、実際の生活は本当に大変で壮絶で。思わない日はない・・・”普通が良かった”と。

今が良くても決して明るい未来なんて描けない。それが現実。

私の育児、大変なのには理由があったからと分かっても、その大変さは何一つ変わらない。いつか報われる日はくるのだろうか・・・・。

見逃されていった長男の特性

今思えば、3歳の時にはすでにADHDの特性が見え隠れしていたなぁと思う。それでも、”座っていられない、じっとしていられない”などの困りごとはなく、まぁ他の子より元気いっぱいという程度のもの。登園しぶりもほとんど見られなかった。

お遊戯会も運動会もみなと同じことを同じようにできていた。今思えば知能がやや高めのせいか、ブロックなどの知的遊びは他の子よりむしろ得意だった。

それでもずっと何か心に引っ掛かるものはあったけど、療育につなげるほどでもなく私はどこかで”知的の遅れがないから大丈夫””小学校に行けばなんとかなる”そんな呪文をかけていたのだと思う。

そしてやはり自由度の高い保育園。もしも、のん子と同じ座学の多い幼稚園に通っていたのであれば、色々と指摘を受けていたのかもしれないが、保育園に通うのん太郎の特性は見逃されていった。

登園すれば自由あそび、その後は公園へ行き自由遊び、公園から返ってくれば給食後にお昼寝をし、のん太郎の場合は早い時間帯のお迎えだった為に、お昼寝後おやつを食べて降園。

園児がするお手伝い係などももちろんあったが、それすらも遊びの延長に近いものがあり、お遊戯会だって一クラス20人に対し2人~3人の先生がつく手厚いものであったため、取り残されるといったこともなく、のん太郎の特性は目立つことなく卒園を迎えた。

先ほど私は自分に”小学生に行けばなんとかなる”と呪文をかけていたと書いた。呪文はそれだけではなかった。

”のん太郎は早生まれ”だからという大きな大きな呪文を私は自分にかけ、それを安心材料にしていたのだと思う。

保育園、今思えばのん太郎にとては天国だった。早生まれという免罪符は年長まで続き、身長も小柄だったこともあり見た目も幼く、だから私は”今まだできなくても仕方がない”そんな言い訳をずっとしていたのだと思う。

そして小学生になった。

今でも思う、あの頃の自分にいってあげたい。

保育園での大丈夫は大丈夫じゃないよって。早生まれの言い訳は年中まで終わりだよって。

そして”あなたの考え、とても甘いよ”って・・・。

それでも毎日が大変すぎたから、あの頃に戻りたいとは思わない。

差がつきはじめた1年生3学期

荒れに荒れた1年生1学期。投薬を始め診断がつきたのもこの時期だった。診断がつくことで楽になる人もいるという。我が子の特性は自分の子育てのせいじゃなかったと。

しかし、私は違った。

この先も、治ることがなく、彼のイライラと癇癪にこれからもずっと付き合っていくのか。保育園時代には全くなかった癇癪だったが、小学生にあがり1カ月ほど経った頃を境に、のん太郎の何かが爆発し、それは癇癪となって現れた。

そして、診断がつく。診断とともに、私はそれを地獄の始まりだと思った。

それでも投薬をしなければ学校に安定していくことはできなかったし、彼の取り巻く今の環境はなかったと思うと、やはり投薬治療をはじめたことに後悔はない。

投薬をすることで”普通”に近づけるのであれば、”安定した心で生きていけるのであれば”・・・結果、私はその道を選んだ。

投薬をしても荒れるときは荒れた。手がつけられない時もあった。そして1年生3学期、公開授業の時にもそれは起きた。

その日はよりにもよって、1年生全員の合同授業だった。多くの保護者がいる前で、のん太郎は荒れた。きっかけはとても些細なことだった。

昔の遊びをしようというテーマの授業だったその日、自分のまわしている駒を友達に踏まれたことが発端となった。もちろんわざとではなく、他の子からすればただただある日常の一コマであろう。

しかし、のん太郎ははそれをゆるせず、授業終了後も教室の壁をけり、最後の整列もできずその時間を終えた。次の授業も引きずり教室に入れず、トイレの前でイライラし他の護者の注目を浴びた。

私はのん太郎をなだめすかすが、スイッチが入ってしまった彼を教室に戻すには至難の業だった。

それでも、なんとか教室へ戻すが、机をわざとガタガタさせ、下られたプリントは丸めて飛ばし、椅子もガタガタ。教科書は机の上に出さずふてくされ、公開授業を終えた。

公開授業というの名の公開処刑だ。

もう2度と行くまいと思うが、行かないなら行かないで、

「あの大変な子の保護者は何で自分の子を見に来ないのかしら?」と、言われるにきまってる。

行くも地獄、行かぬも地獄。

まさにそんなところだ。

そして時を同じくして2020年、初めての緊急事態宣言が出た。

私は一番初めに思ったこと。”あぁこれで毎月あった公開授業がなくなる・・・”

不謹慎を承知で言う。それが私の主人へ伝えた第一声だった。

後にも先にも公開授業で荒れたのは、その時が初めてだったけど、この先も”荒れない”という保証はないし、公開授業なんてなくなればいいと心底思う。

今思うと投薬を始めた頃させえ、私はまだ”定型”を望んでいた。躾で何とかしようとしていたし、強く言い聞かせることで”普通”に近づけようとしていた。薬は魔法の薬なんかじゃなかった。

”差”を目の当たりにして現状を痛感する

1年生の3学期になると他の子との差は歴然としていた。

どの子も学校に馴染んでいた。自分のことは自分でできるし、嫌なことがあって少なくとも授業に出ないということはなかった。

のん太郎は違った。

耐えられない嫌なことがあれば教室から抜け出してしまうし、気持ちが落ち着くまで職員室で過ごすこともあった。特に勝ち負けに関しては顕著であり、自分の”負け”を認められないがゆえの癇癪が目立つようになっていった。

それが繰り返されるうちに思った。

”あ~うちの子ってやっぱり発達障害なんだ”って。

受け止めるべきものが大きすぎて、何度もこの子を育てるのは限界だと思った。投薬を始めた日よりもずっと辛い日があったなんて、知らなかったよ。

自分の産んだ子のありのままを受け入れることなんて、私には到底難しかった。

こう育って欲しいと夢に描いていたことの実現は、きっともう難しいだろういう事実を、日々突きつけられているような感覚に襲われた。

ADHD、それはとても辛く重く想像をはるかに超え私の人生にのしかかってきた。

小学校に入りのん太郎は確かに成長した。

けれど、周りの子はもっともっと成長していった。その差は縮まるどころか広がっていった。

それが1年生の3学期のことだった。

普通級でいたい長男との話し合いの日々

荒れていた時、のん太郎とこんなことを話しあった。

のん太郎が教室で暴れたら、それは授業妨害になること。あなたにもみんなにも教室で授業を受ける権利があり、どんな理由があろうともそれを妨げることは絶対に許されないこと。

今の小学校で今の教室でそして今のお友達と小学校を卒業したいのならば、自分の行動を見直す時期にきており、どしても気持ちのコントロールができないのであれば、情緒級という支援の小学校へ転校しようと伝えた。

そして情緒級の良いところ、今の学級と違うところを繰り返し繰り返し説明をした。

のん太郎は泣きながら、転校はしたくないと言った。

どうしても癇癪が起きそうでも、教室ではそれを絶対に出さない事。クールダウンのできる通級の教室へ行く事。けっしてお友達の授業の邪魔をしないこと。強く強く約束した。

そんなことを繰り返し2年生の3学期となった。

今でも私は”定型児”を望み育児をしているのかもしれない。

私の育児の向かう先が、

のん太郎生きやすい未来”なのかそれとも”のん太郎が普通に見られるようにするための未来”なのか、わからない時がある。それでも明日は来る。

正面から向き合うことが多すぎて、それは私のキャパシティーを超えているから、膝付き合わせてなんて絶対無理だけど、小さなことから一つずつ・・・。

余裕なんて全然なくて、いつもギリギリのところで育児してるなって思う。

想像もしてなかった私の過酷な育児だけど、去年よりは少しマシになったと思いたい。

いつもありがとう。

美羽