ADHDの子供を育てるということ

2019年6月、癇癪を静めるために、息子の命を守るために投薬を決める

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ADHDなどの発達障害のある子にとって運動会は試練の幕開けだった

続きです↓

運動会が終わっても、一向に気持ちの落ち着きをみせない長男。

10連休あたりからはすでにのん太郎の行動を見ていて『ここまで気持ちの切り替えができないのであれば一度、精神科を受診してみよう』と結論は出ていた。

もう私の心は疲弊していて”愛情”がゆえの受診というよりも、医療の手を借りていかないと子育てができないと判断したからだった。

順調だった小学校入学式後の4月の生活とは一変し、のん太郎はグレーじゃなくこれは発達障害だと確信するようになったのもこの時期だった。

発達障害の子育ての苦しみって、こればっかりは当事者にしかわからないのだと思うけど、本当に本当に辛いものがある。

日常生活の大半を気持ちの切り替えができない人間と過ごさねばならず、しかし歳を重ねるごとによりそれが顕著化していく。親の抑制もきかなかれば、自制もきかない。

10歳を過ぎると発達障害も落ち着きをみせるというので、もしかしたら今が一番大変なのかもしれないが、そんな達観できるほど日常は穏やかではなく、日々自分のイライラがどこまで制御できるか、試されているように思える育児が続く。

そして時に、あまりに言うことを聞かない我が子に憎しみすら覚える時がある。

歳を重ねるごとに顕著化する問題行動をかかえる我が子とは対照的に、周りのお友達はどんどん成長していき、自立し、自分だけがぽつんと取り残されたように感じる。

周りにそれを悟られるのも、大変だよねと言われることも、その全てがいやだった。それを悟られまいと、いつも私は自分を偽っている。

ADHDは天才だと言う。かつて、エジソンやアインシュタインもADHDだった可能性が高いという。友達にも”将来アインシュタインかもしれないね”と言われるが、そんな”特別”なんかいらいない。

何度”普通”がいいと思ったかわからない。

これが個性というなら、個性なんていらない。

ADHDだから、発達障害だからと、こちらも理解して日々我が子を接しても、親自身が我が子の病識があっても、だからと言って子の行動の凹凸が解消されるわけでもなく、問題行動は続き、そのゴールは全く見えない。

毎日思う。

これはいつまで続くんだろうと、これはいったい何の試練だろうと。

5月の連休を終え、クリニックの受診の予約を入れた。

(クリニックの選び方と、決め手はまた別の記事に書きます)

学校は休まず行けてたこともあり、登校しぶりも5月はまだなかったので、わざわざ休ませてクリニックへ受診をするのは得策ではないと判断し、運動会の振り替え休日に予約を入れた。

そして先月の、5月27日(月)初めて精神科の門をたたいた。

まさか、私の人生に精神科の受診が起こりうるとは思いもよらなかった。これが正直な感想だった。

クリニックの初診時の受診内容も別記事で設けるとして、とりあえず初診であるこの日は投薬は希望せず、いったんはこのまま様子をみようというはこびになった。

私自身、この翌日から、大きな癇癪が始まるとはこの時点ではまだ知らない。

そして、翌日からついに本当の意味での”癇癪”が始まる。

私はこの日のことをこの先も絶対に忘れることはないだろう。

早朝6時、それは始まった。

”怒る”ことと”癇癪”では、絶対的にエネルギー量が違う。それを痛感する出来事となった。

そばで癇癪を起しているのは”のん太郎”だけど

そこにいたのは本当の”のん太郎”なんかじゃなかった。

怒りから癇癪へ変わる瞬間は一瞬だった。

キレたきっかけは小さいものだが、その根底は登校のストレスだったと今はわかる。

のん太郎の手は怒りで震え、その怒りをもう自分では抑えることはできなくなっていた。

声にならない声を叫び、暴言を吐き、親を罵り、地団駄を踏み・・・・

200冊は超えるであろう家の本棚にある本を全て床にばらまき、パパが大事にしていることを知っているオーディオをわざと倒し、そして自分の勉強机にあった大事にしている辞典をビリビリに破いた。

液体洗剤を床にばらまき、本はべちょべちょになり、しかし漏れていくその液体を私はすぐに拭く気力はもうない。部屋はもちろん散々なことになった。

パパには下の子を守ってもらっていた。

まさに異常ともいえる行動だった。

のん太郎の中にある”怒り”というものを、外に発散させたその姿は、親として直視できないものがあった。

悲しみ以外、何ものでもなかった。

癇癪がおさまらない自分に、今度は涙が流れてくるのん太郎。もう誰も彼の心を制御させることができない。

のん太郎はその癇癪のまま、家を飛び出そうとし、ベランダに出ようとし、私たちが住んでいるマンションの12階のという高さを考えると、私はこの状態は非常に危険であると判断した。それに下の子がいる中、どこまでのん太郎を守り切れるか自信がない。

そして、その日の癇癪がおさまるまで2時間を要した。時刻は朝の8時を過ぎていた。学校へ行くための家を出る時間は過ぎていたが、まだ学校に間に合うと私は思った。

そしてようやく冷静さを取り戻した彼を、その日は自転車で学校まで送っていった。

『その状態で学校行かせたの?』

と、思うかもしれない。

ここからはもう親の判断だと思うけど、

私も学校を休ませることも一つの決断であり、ひとつの勇気だと思う。そしてその”ひとやすみ”が次の登校につながるケースだってもちろんあると思う。

けど、私は

「今日、学校を休んでみる?」

その一言が言えなかった。その勇気がなかった。怖かった。

あの時のこの選択が、正しかったかなんて、今はまだわからない。

周り友達から、のん太郎くんはインターナショナルスクールとか、そういうところの方があってるんじゃない?と言われたこともあった。留学があってるね!なんてみんな簡単に言う。実際、中には自由度の高い小学校もあるのかもしれない。

小学校以外の選択肢があること、そんなことは承知の上だし、義務教育というスタイルがのん太郎には難しいことも理解している。しかし現実問題、公立の小学校が難しいから他のスクールに・・・なんてそんなリアルどこにある?それができるのはごくごく一部の限られた人たちなのではないのだろうか。

多くある現実は、今あるこの環境で生きていかなくてはならないことだろうし、これから先もずっとその課題がのん太郎についてくるものと思う。

学校へ行かないというのは最終選択肢とし、今はどうやったら学校へスムーズにいくことができるかを最優先すべきと私は思っている。なぜなら、まだ1年生だから。なぜなら、まだ2カ月しかたっていないから。

そしてその日、2時間の癇癪を経て向かった学校。その日の私もボロボロだった。癇癪があった日はスクールカウンセラーの先生と2度目の面談の日でもあった。私はその貴重な面談の時間の半分を泣いて過ごした。それでも精一杯、今日の朝何が起こったのか伝えた。

本来なら、前日に受診した精神科のクリニックの件を中心にお話したかったところだがそうもいかなくなった。疲弊した毎日に加えこの嵐のような癇癪をきっかけとし私は、発達障害の薬を試してみようと決めた。服薬を開始することで心配な点はたくさんあったが、私たち家族が生きていくために、今は薬が必要だと母として判断した。

スクールカウンセラーの先生との面談後、昨日受診したクリニックへ電話をした。事情を伝え、2日続けての精神科の受診のはこびとなった。

その日の下校時、のん太郎を迎えにいった。

2時間を超える癇癪があったとは思えないほど彼はにこやかだった。スクールカウンセラーの先生に手をつないでもらって下校となり、私が引き取りそのままタクシーにのってメンタルクリニックへ向かった。

タクシーで30分ほどかけ到着したクリニック。まさか昨日の初診に加え2日続けて受診となるなんて想像もしていなかった。

その日処方されたのは、ADHDの薬の代表的なものである”コンサータ”だった。そしてそのコンサータという薬を1日1錠18mm、それを翌日から服薬を開始した。

しかしそれが全く効かず、嵐の日々が待っていた。

現在のエビリファイという薬と出会うまで、のん太郎の荒れ狂う癇癪は毎日何時間も何時間も続いた。

こちらの日記に続きます↓

全く効かなかったADHD薬『コンサータ』、期待は一気に裏切られる

いつもありがとう

美羽