ADHDの子供を育てるということ

ADHDなどの発達障害のある子にとって運動会は試練の幕開けだった

ご訪問ありがとうございます。みゅうです。

はじめにお伝えしておきます。

長男(6歳)のん太郎は現在、発達障害の薬の一つである”エビリファイ”という薬を3mg飲んでいます。服薬に踏み切った理由も含め、更新できなかった4月から何があったのか、少しづつお伝えしていければと思います。

ご心配をおかけしてしまいそうなので、結論から先にお伝えしますと、飲み始めてちょうど本日で7日目となりますが、のん太郎の”癇癪”という部分だけにうまく作用してくれて飲み始めてから今日まで一度もあの激しい癇癪が起きていません。(学校での癇癪はもともとありません)

学校でも家庭でも非常に安定した1週間となりました。

服薬していても、おちゃらけた可愛い部分は残り、やんちゃな面も残り、集中力のあるところも残り、ただ純粋に癇癪という面だけが鎮静化しています。ただこれでもまだ1週間程度の話なので、来週も再来週もそうである保障なんてありませんが。それでもこの”今”を大事に大事に生きています。

小学校に入り、朝と晩に宿題以外の自主学習をはじめたのん太郎。自分の気持ちの赴くまま好きな辞書を読み、好きな計算をし、文章問題を解いています。

小学校生活で”勉強”というものを始めて知ったのだと思います。

癇癪が起きていない時は”学ぶことが楽しい”とよく言っていました。時には将棋の本をキラキラした目で見つめ、すごいすごい!と話し、時には漢字の本を読み進め、音読みと訓読みの違いをちゃんと知りたいと話します。

授業である『こくご・さんすう』に魅了され、問題集をせがまれ購入し、自分のペースで毎日のように問題を解いています。もともと”黙々と考える”ということが好きだったのん太郎にとって、国語と算数は魅力的だったのだと思います。

ただそれでも、癇癪が起きると積み重ねてきた漢字の練習のノートをビリビリにやぶいたり、大事にしている漢語辞典も上手にかけなかった字のページをぐちゃぐちゃにして投げ捨てたり、難しい漢字がうまくかけなかったと怒り狂い、その対応に疲れ果てていた私は『だったら勉強なんてしなければいいのに』と心底思っていました。

投薬前ののん太郎は、自分のやりたいことが自分の思い通りにいかないという大きなフラストレーションを常にかかえ、ちょっとしたことでキレ、その理由はやっぱり学校生活のストレスだったのかなと思います。

私は母として、登校させるべきか心底悩みました。しかし、第3者(例えば、病院・スクールカウンセラー・担任の先生・ペアトレーニングの実施など)が非介入の時点で、本人と親だけのかかわりの中で、小学校へ行かないという選択は時期尚早と判断いたしました。

※決して、不登校を否定するものでありません。

試練の連続だった運動会の練習

家庭での生活も学校での生活も順調だった4月も終わろうとした頃、のん太郎の癇癪がはじまった。今思えば、4月と5月は家の中で”暴れる”という状況ではなかったので、癇癪と言っても、親が耐えうる癇癪だったのだと思う。それでもあの頃はあの頃で私も精一杯だった。

そして迎えた10連休。心は大荒れののん太郎だったが、家の中の物を壊すという行為にまでは至らなかった。しかし、ようやく登下校に慣れてきた中での今年の10連休・・・正直、不必要な10連休だったなと今でも思います(泣)

連休の間も、何度『家を出ていく』と言い実際に出て行ったかわからない程で、早い時で朝の5時。近所迷惑だと思いつつも私の体がうごかない。パパが休みでいてくれたので、なんとか凌げたようなものだった。この時から暴れはしないが、暴言がかなり目立つようになる。

そして、10連休明けから本格的に崩れていったのん太郎。それでも、朝は決まった時間に学校に行くことができ、登校しぶりもなかった。

しかし、大きく変わったことは、嫌なことがあると1日に1回、多くて2回のペースで教室から出てしまうようになったことだった。

そんな中で、初めてスクールカウンセラーという第3者の介入がはじまった。家族とのん太郎との関わりでは解決はもう厳しいと判断したこと、医療機関の受診も同時進行ではじめていこうと決めた時期でもあった。

10連休明けの初日、スクールカウンセラーと面談となる。

今思えば、勇気を出しスクールカウンセラーの先生との面談を学校に設定してもらったこと、それは大きな大きな前進だったんだと、つくづく思う。

その日、面談の為に2時間目の時間帯に私は学校にいた。面談では自宅での様子を伝え、初回だったという点もあり、これまでの成育歴や5歳児健診等の経過をお話しさせていただく中、面談を終え面談室から出た私。

その時だった。

面談室から出たところ、筆箱をもって教室から逃げるように去っていくのん太郎と遭遇する。

思わず

「ねぇ、何やってんの?まだ授業中だよね?」と、声をかける私。

筆箱を握り締めている時点で何があったかおおよその想像はつく。おそらく授業中にふでばこいじりを注意され、3回注意されても収まらなかったら筆箱を没収されるというルールが先生とクラスの中にあり、大抵の子は守れるが、中には守れず没収される子もいる。

そして、その中でものん太郎は没収を拒み教室から出ていっただと思われる。

案の定、その通りだった。

その日は1時間目に運動会の練習が始まった日でもあった。

もともと団体で見せる競技というものが苦手なのん太郎。人前でダンスをすることも、熱い中で練習をすることも、曲に合わせて踊ることも・・・

そこにのん太郎は何の意味も見いだせない。

それでも”やらなければならない”のが小学生である。それができないのが発達障害だ。

おそらくそのストレスから、我慢が効かず教室から出てしまったのではないかとの話だった。

5月の最終週の土曜日の運動会に向けて連休明けから毎日のように始まったその練習。日を追うごとにのん太郎のストレスは増していく。

しかし、家に帰ってきても『学校は楽しかったよ』というばかりで、実際何が苦痛なのか”おそらく”でしか本人の状況をつかめずにいた。

しかし、次第に練習に参加ができない日がでてくる。それでも、担任の先生が個別に教えてくれたり、他の学年の先生が励ましてくれたりして、なんとかなんとか毎日を送っていた。

5月の下旬ともなれば、のん太郎のことを知らない先生は学校ではいなくなり、しかしそれは悪目立ちゆえのことだろうが、そんな手厚い温かみのある学校を選んで心底良かったと心から思うようになったのも、この運動会がきっかけでもあった。

運動会の練習がうまくいかない時、担任の先生とのん太郎でこんなやり取りがあった。

先生『のん太郎君は、ダンスとか、もしかして苦手なのかな?』

のん太郎は頷く。

けど、そんな先生の問いかけにのん太郎は、

「ダンスは苦手だけど、ぼくはこくごやさんすうは好きだよ。」

と話をしてくれたと担任の先生から電話をもらって知った。

だから、先生は、

「運動会の練習は頑張れる範囲で頑張って、のん太郎くんの好きな勉強は頑張っていこうか!」と声をかけてくれたようだった。

家ではほとんど学校のことを話さないし、根掘り葉掘り私も聞かないようにしているので、担任の先生が細かく電話や連絡帳で学校でののん太郎の様子を伝えてくれるので、先生のおかげでのん太郎の様子を細かく知ることができた。

※発達の凹凸がある子は、学校での嫌なことを根掘り葉掘り聞いてしまうと、鮮明に思い出してしまう傾向があり、同じような嫌な気持ちも再度味わうこととなるので、聞く事は必要最低限としている。

そして、本番前々日のリハーサル。その日は色んな先生に褒めてもらい励ましてもらいリハーサルに参加することができた。

しかし、運動会を想定した前日の全校生徒のリハーサルには参加できなかったのん太郎。いったいどうなることやらと思いながら、当日を迎えた我が家。

初めて運動会に見に行くのが辛いと思った。

それでも当日、のん太郎は大きな頑張りを見せてくれた。

お世辞でもうまいとは言えないダンスだったが、ものすごい暑さの中踊りきり、徒競走は一番に。応援も頑張り、一度も席から離れることなく運動会を終えることができた。

しかし、そのお世辞でもうまいとは言えないダンスを見て、私はこれはいくら頑張ってものん太郎には難しい分野なんだと悟る。

整列も度々乱れ、準備体操もなかなかついていけず、校長先生の話にはしゃがみ込む場面もみられた。彼の限界、それでもその場を離れず頑張った彼に私はエールを送った。

運動会を終えた5月下旬、これで癇癪も収まるかもしれないと思ったが、それは大きな間違いだった。

荒れ狂う6月が待っていた。

こちらに続きます。↓

2019年6月、癇癪を静めるために、息子の命を守るために投薬を決める

いつもありがとう。

美羽

追伸:

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