ADHDの子供を育てるということ

ADHDグレーゾーン、躾でシロにさせたかった時期を乗り越えその先に見た景色

ご訪問ありがとうございます。みゅうです。

今日の保育園までの道のり、のん太郎はこんなことを言い出しました。

「今日は、年少さんと年中さんと年長さんの、きょうりゅう散歩なんだよ。宝探しとかするんだ~。」と、意気込んでおります。

「え?きょうりゅう?恐竜のお散歩するの?」と、私。

「そう!きょうりゅう散歩!」と、のん太郎。

「恐竜ねぇ・・・」

そんな会話の中、保育園へ到着。はじめに目につく掲示板。そこには・・・

”今日は、年少さんから年長さんまでの交流散歩です。”

と、書かれていました。恐竜と交流・・・・。

子どものこういう一面って、本当にかわいいですよね。朝からほっこりしました。

”ADHDだから”というそのフィルター、いりますか?

こんなコメントさんを頂きました。

姪っ子を見てて思うんですが、ADHDの子って感受性が強い子が多いんでしょうか?もうガラスのハートじゃないかって思います。アンパンマン見て泣くんですよね(パパである兄も一緒になって泣いてますが)。繊細すぎて繊細すぎて、自分のハートが壊れないように自己防衛してるのかな・・・・

私としてはアンパンマンを見て泣けるその優しさを、長男に少し分けてもらいたいくらいです。それにアンパンマンを見て泣けるというのは、人の気持ちに寄り添えているということです。(正確には、人じゃなくてパンだけど・・・。)素敵な姪御様ですね。

5歳児健診を経て思うことは、ADHDだからというフィルターをかけることで、その子の長所である面がそのフィルターによって短所にでもなりうる危うさがあって、親としてそこは気を付けていこうと思うようになりました。

発達障害やその疑いのある子たちの場合、芸術面や運動面等で何か興味があることがあると、その部分の知識や技術だけ突出することがあるのはよく聞く話だけども、そこに関し、これは”発達障害の特徴である”と見なすのは少し違うのではないかと思うようになった。

よく言えばそれを才能というのかもしれない。

それでもそこに、本人の努力があることを絶対に忘れてはならない。

感情面もそう。周りの人間がそうやって人の気持ちがわかるように育ててきたからこそであり、そこにADHDかどうかなんてもはや関係ない。

そんなことを思う。

ADHD傾向がある場合の子育て、躾で解決させようとしてた時期

ADHD関連の著書には、その傾向がある子の場合の多くに自己肯定感が低さがみられると指摘しているものが多くみられた。それはなぜだろうか。

ADHD傾向のある子どもやいわゆる”育てにくいところがある子”の場合、家庭でも保育園・幼稚園でも叱られることが圧倒的に多く、また集団生活をしていくうえで、他の子はできているのに自分はできないということに、年齢があがるにつれ気付くようになる。怒られることの多さ、他人との優劣、その積み重ねが自己評価の低さを助長させ、よって自己肯定感が育ちにくい。

特に家庭においては、必要以上に怒られてすぎてしまう事が往々にしてあるのだと思う。本人の特性がまだ親自身も手探りな段階であった場合、まずは自分の躾に原因を探る。厳しく言い聞かせれば何か変わるかもしれないと、そこに望みをかける。親として当然のことと言える。

しかし、子が成長していくうちに少しづつ他の子と比べて何かが違うということが明確になってくる。年齢があがることによって解消されると思ってた面が解消されないからだ。

この時点で親が自身の子の発達の凹凸を疑がいだしたとしても、それでも躾で何とかさせようとする時期がおそらくあって、それは次第にエスカレートしていく。親という絶対的な立場を利用して。

口調もきつくなれば声も大きくなる。そして自分の口から出た言葉は躾とは程遠いいものだったりもする。少なくとも私はそうだった。

もっともっと厳しく言えば、改善するかもしれない。自分が厳しく言い聞かせれば、のん太郎は何か変わるんじゃないかと、躾と苛立ちが加速した。必要以上に厳しく怒ってしまう時期があった。

いくら厳しく言っても、一向に改善しなかった。ふとまた、発達障害の文字がよぎる。しかし、親としてまずは障害の否定から始まる。だから、躾でなんとかしようとする。そんな繰り返しの時期があった。

この時期が一番しんどかった。今は、なんとなくその時期を乗り越えた感じがしている。良い意味でのあきらめもあるのだが・・・。”諦め”と”見守り”の境はなかなか難しいものがある。しかし、そのどちらの感情にも愛があれば良しとするようにもなっていった。

それに、こちらがいくら言っても伝わらない時は伝わらないと、腹をくくれるようになった。そんな時は子ども側の成長をもうしばらく待つ時期なんだということを知った。

そんな子を持つ親としてできることは、命を守ること、人の迷惑になった場合のみ叱る以外、手も頭も回らないというか、その2つだって大抵が危うい(無念・・・笑)

先日もこんなことがあった。

いまだに雨の日でも水たまりに果敢に挑みむのん太郎、長靴がバケツと化す。

だいたいは避けて通る水たまり。けれど、水たまり避けて通れる子が偉いわけじゃないと思えるようになった。これものん太郎のおかげだ。

いやね、私は避けて通って欲しいよ。そりゃね(笑)

けど、楽しそうに泥んこたっぷりの水たまりで遊ぶのん太郎。もしかしたら、その水たまりでの経験がのちに何かに繋がるかもしれない。

今回、たまたま水たまりだったけど、この先の人生、水たまりのような出来事はきっとたくさんあって、その出来事を避けて通るか寄り道をしていくかは、のん太郎が選択すればいい。親の口出しは時に成長の邪魔をする。

見守る方も覚悟が必要だけど、もしかしたらのん太郎の人生の寄り道のたびに、私も何か新しいことを見つけられるのかもしれない。

いつか手を離れるその日まで。

いつもありがとう。

美羽